2018年9月20日木曜日

寺離れ(2018.9)

葬式はやらないでくれ。

こういう遺言が増えてきた。

葬式代が高すぎて

葬式をやって子供に迷惑を掛けたくない。

結果、寺の収入は劇減り。

寺の収入があまりにも少なくて

サラリーマンの方がよほどよくなっている。

寺は信心という言葉を根拠に成り立つ

究極のサ-ビス業ではある。

が、坊主がやりすぎてクラブやホスト以上に

べらぼうなお金をとるものだから呆れられてしまった。

当たり前のように葬式に来て、

当たり前のように彼岸に参って

高額のお布施をとる。

今の年寄りはまだお寺には近しいが若者には、

えっなにそれくらいのものになってしまっている。

昔、私が小学生のころ

今のように遊ぶ楽しみはほとんどなかった。

年に何回かお寺が夏は子供を集めてスイカを食べさせ

お釈迦様の幻燈(現代のビデオの様なもので動画ではなく
静止画のスライドの様なもの)を

見せてくれて食い入るように見た覚えがある。

秋は焼き芋、冬はカマクラ、親も一緒に行っていた。

お寺がちょっとおいでというときは、信心は無くても

子供心にはスイカ、遊びが頭に浮かぶから

喜んで行っていた。

子供が大人になっても寺に親しみは残っている。

それほど寺、坊主に拒否の気持ちは無い。

でも昔のような子供をも巻き込んだような

楽しみの場としての役割もせず、

何の投資もやらないで当然のように

葬式、彼岸でお金を持ち帰る行為には疑問がある。

別に坊主に来てもらわなくても

自分たちだけで集まって故人をしのぶで

充分ではないかと考えてもおかしくはない。

言葉だけで生きていく人たち

【坊主、神父、新興宗教、講演者、、、、、】

お経は社会、会社のやる講演会を聞いていても

なんにも心には響かないのとおんなじなんや。

帰るときには何か言ってたなくらいなもの。

はいご苦労さん、ひとつ厄介なことが終わった

シャンシャン。

行動を伴わないものに対する価値の喪失は

今後ますます増えていくだろう。

まだ漫才、落語ならお金を払っても価値はあるが、

わけのわからないお経を聞いても有りがたくないんや。

お彼岸に拝みに来て御詠歌、和讃などを歌ってくれれば、

歌手としてお金を払ってもいいけれど。

坊主ももっとエンタ-テイメントとしてやればどうや。

葬式のお経はなにも有りがたくないぞ。

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